自分のあるべき姿

沢山サッカーをしたい子をサポートすべきだと言い続け態度に出している。上手くなりたいという気がある子をサポートすべきだと行動に移している。地位名誉お金なんて二の次、勝った負けたも三の次、私利私欲でサッカーを教えてるわけではない。お前とは違うんだ!と、仮想コーチを見立てて我が身を観察する。

レクレーションではなくサッカーを教えるのは辛いことも多い。試合より練習の方が量が多くないと、天才ばかりを集めてやる競技にしかならない。

身も心もタフネスな人間に育てるのが本当の心情。しかし無理矢理やらせるのは、個人的には嫌で仕方がない。要望なしで引き受けたくないのだ。

今日もまた、車で60キロ以上の道のりを意欲のある人のために夕方から向かった。どこのチームの子が上手くなろうとも、分け隔てなく情熱を注ぐ。要望がある限り続けるだろう。妬みも嫌みも狂言にも、心が負けることはない。奇しくも慣れてしまってるから。

本気で強くなりたいと思う気持ちは大事に育ててあげないと。弱々しい日本人をつくるような真似は避けたいと思う。どうせ歳を重ねる毎に、ほっといても弱々しくなるのだから。

少しでも関わった教え子だけでも、大志を抱けるように。

鍛えて下さいと言われ、冷静に受け止めるが、これほど嬉しい要望はない。
しかし子どもにそう言われ実行するとドロップアウトされた経験がある。にわかに信じてはならないが、大人から言われたのであれば、応えるのが道理であるかもしれない。
どこの誰だろうと、どこのチームの子だろうと、親が私を選んだのあれば親の希望を、子が私を選んだのであれば子の希望を。私は馬鹿でありたい。

しかし得意な分野を要求されると嬉しくなるものだ。持ってる力を使えばいいだけだから。
ついでに、もう鍛えなくて結構ですと、早めに言ってほしいとも思う。それなりに楽しくサッカーを経験させられる。見捨てたりはしないし、必ず成長はさせる。これまた得意な事象。

唯我独尊

ザマァミロ